宮前区では5月9日に宮前平区役所前から宮崎台まで行進します。
核兵器も戦争もない平和を、スタンディングや手づくりグッズでアピールし私達の願いを広めましょう。
どなたでも飛び入り参加、大歓迎!被爆80年の今年、是非ご一緒に歩きましょう♪
宮前区では5月9日に宮前平区役所前から宮崎台まで行進します。
核兵器も戦争もない平和を、スタンディングや手づくりグッズでアピールし私達の願いを広めましょう。
どなたでも飛び入り参加、大歓迎!被爆80年の今年、是非ご一緒に歩きましょう♪
被爆80年・核兵器禁止条約発効4周年を記念して、原水爆禁止宮前区協議会主催の講演会が2月22日(土)宮前市民館で開催されます。
「広島・長崎から戦後核被害へ 福竜丸の航跡をたどり核なき世界へ」
講師は 第5福竜丸展示館学芸員の安田和也さんです。
奮ってご参加ください。
「日本母親大会in 和歌山」に参加して
今回日本母親大会に参加を決めた時、父・祖父の出身地の和歌山県を意識しませんでしたが、現地を見て漠然と自分とつながった土地を感じました。私は、昨年病気してから旅行に出ていなかったので、集団行動についていけるか心配でしたが、参加することができて本当に良かったと感謝しています。
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全体会のメイン講演が、東京の第五福竜丸展示館の安井和也さんのお話でしたが、原水禁運動に長く携わってきたものにとっては、第2次世界大戦後の大国の核開発競争とその核実験が何をもたらしたかのお話は、衝撃的でした。地球上での核実験は2060回も行われたとのこと。核兵器禁止条約ができて、実験の被害者救済が明記されていても、実験当事者は条約に未加盟、その実態は隠され当事者は何も知らされないまま放射能被害に苦しみ亡くなっていく。
核をどうなくしていくか、打開の方策を探していかなければならない・・・・・・・・。
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29日の分科会は、「核兵器も戦争もない平和な世界を」と題するシンポジウムに参加しました。この分科会については、別の報告があると思うので、私は、このシンポジウムの報告者の一人、今年大学卒業後の23歳、(「核廃絶ネゴシエーター」一般社団法人かたわら)を創設して、横浜と広島を往復している高橋悠太さんのことを紹介します。
この高橋悠太さんには、私がお会いしたのは2回目で、1回目は確か昨年か一昨年夏に生活クラブのOBの方が宮前区鷺沼にお住まいの被爆者・松本正さんのお話を聞く会を計画され、そこに同席されていました。
今回、高橋さんは、「核のない世界へ、あきらめない社会をつくりたい」「平和をつくる」との思いで、「かたわら」をつくった、と冒頭に話されました。世界の核兵器の現状を話されたあと、高橋さんは、「なぜ自分は、この問題で動くのか」を話されました。被爆体験、運動が先行世代の問題になっていることへの反感がある。青年の意識調査では、「社会をよりよくすることに貢献したい」と思っている人は、92%いる。そこの人たちに働きかけたい。若い世代を応援してほしい、とむすばれました。
若い後継者がいなくてどこの団体も苦労しています。けれど、若い世代の方も苦労しながら、「平和」をつくる立場で努力を重ねている姿に感動しました。
オプションの熊野古道と熊野本宮も印象に残る良い経験でした。
(たけやぶ班 会員)
平和な日本実現しよう!!
― 平和・くらし・ジェンダー平等 つれもていこう! ―
9月28~29日、和歌山県民文化会館、和歌山城ホール等において第69回日本母親大会が開催されました。全国から現地に9,000人、オンライン参加も含めると11,200人が参加し、宮前支部から4名とオンライン3名が参加しました。
オープニングは紀の川市の障がい者就労支援B型事業所のチンドン楽団『トンカラポンガ』の歌と踊りのパフォーマンス。関西を中心にイベントやお祭りに参加し、地域に溶け込んで活動しているとのこと。障害を隠さず、お茶目で楽しいパフォーマンスに会場が盛り上がりました。障がい者支援のあり方としても興味深く関心しました。
記念講演は「第5福竜丸、みんなの船 ~ビキニ水爆実験70年、世界のヒバクシャとともに核兵器なき地球を~」と題して安田和也さんの講演を聞きました。ビキニ事件をきっかけに1955年6月に第1回母親大会が東京で開かれたこと。第5福竜丸は77年前に和歌山県串本で作られた船であり、エンジンが和歌山の海から引き揚げられたとのことで和歌山とは深いつながりがある。ビキニ水爆実験(ブラボー)は広島原爆の1千倍の威力を持ち『死の灰』は黒潮にのって太平洋からインド洋にかけて、海も空も島々も放射能で汚染した。日本のマグロ漁船の被害は992隻(乗組員約2万人)に及び、和歌山県でも30隻が被災した。アメリカは日本政府に200万ドルの慰謝料のみ、第5福竜丸の乗組員の医療費と見舞金、廃棄マグロの補償に当てられたが、他のすべての漁船の乗組員には未だ健康被害の調査も、謝罪も補償もされず放置されている。高知地裁や東京地裁では訴訟がたたかわれている。
それ以降の核実験の実態、イギリス、フランス、中国、アメリカなどで地球上に放射能が拡散している。残った放射性物質をどうするかも決まっていない。核兵器禁止条約で核をなくすしかない。映画「第5福竜丸」を見てほしい。第5福竜丸に会いに来てほしいと結んだ。
あらためて知ることが多く、このままいけば人類滅亡の危機、戦争なんかしている場合ではない。平和、安全・安心な暮らしのため、みんなで助け合っていこう。(つれもていこう。)
午後は「ジェンダー平等」分科会に参加しました。90名の参加、日本婦人団体連合会(婦団連)会長の柴田真佐子さんの報告と参加者からの発言。離婚後共同親権の問題、職場での女性差別、賃金格差、米兵による少女暴行事件の数々、ジェンダー格差指数、選択的夫婦別姓制度、慰安婦問題等を身近な事件、情報をもとに次々と参加者から発言、女性差別撤廃条約における日本政府の対応(国連1985年日本も批准したが国会で審議しない)。未だ日本社会の中にジェンダーバイヤスが根強く残っている。(自分たちの中にもあると自覚)10月にジュネーブで国連女性差別撤廃委員会の第9次日本報告審議が行われるとのこと。この委員会から再三勧告されている議定書の批准と選択的夫婦別姓制度を実現させるチャンス。柴田さんはジュネーブに行って訴えると、参加者の意見を16項目にまとめて確認事項としました。女性差別は根が深く、もっと丁寧に学ばなければと痛感しました。
(ピーチ班 会員)
沖縄平和委員会・上野郁子さんの話を報告します。(レジメはありません)
沖縄は鉄道がなく道路でつながっています。道の両側はほとんど米軍基地です。基地のそばで暮らす子どもたちは戦闘機が飛び交うのが日常で慣れてしまっていて普通に遊んでいます。上野さんは「慣れてはいけない」「慣れてはいけない」と強く思うようにして、辺野古では子どもと「こわいよ!」「いやだよ!」と声をあげ続けています。
先島諸島では台湾有事に備え、米軍と自衛隊で要塞化が進んでいます。與邦国島では、島民軍事避難計画もあり、一人でも「島に残りたい」と言うと「あなたが残ったら役所の職員の誰かが残らなくてはいけない」と言われた。また、有事後、避難先から戻ったら街がなくなっていることもある。
沖縄への応援は?の質問に上野さんは「つれもていこう」...沖縄に来て現実を見てほしい。こんなに頑張っているのに沖縄は変わらず、もっと危険になっている。今度の選挙で政治を変え、自分の街の民主主義を取り戻したい。
私は3回沖縄に行っています。2回はスタディツアーで、辺野古やガマ、普天間基地、海から米海軍が基地にすぐ行ける道も見ました。こんな不気味な所に私は住みたくないと(多分、気候、自然、食べ物が苦手)思いましたが、神奈川県にも6つも基地があります。
新総理石破氏は自衛隊を憲法に明記し、軍隊にしようとしています。GDP比2%の大軍拡、武器輸出解禁、「日米軍事同盟」強化と戦争する国づくりが進んでいます。 最近の新聞で石破総理が幹事長の時、辺野古新基地に慎重だった自民党議員に「デモはテロ」と賛成に転じさせた。「平成の琉球の処分」を知りました。
自民党は、沖縄を戦場に、基地どころか棄地にしようとしている。「自民政治を変えよう」参加者は全員決意したと思います。
(コスモス班 会員)
合唱団いちばん星では、コロナ等でのびのびになっていたSさんの米寿をお祝いする会が8月16日に行われたとのこと。新婦人の会の会員でもあるSさんが「私の少女時代」と題したお手紙を書いてくださったそうです。
今回はご本人のご了解のもと、その素敵なお手紙を掲載させていただきました。
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私 の 少 女 時 代
たもりさんがテレビで「戦争前夜?」と言った頃だったろうか。日本の敗戦後。70余年、それまで殆ど目にすることの無かった「敵」という語をこのごろは敵基地攻撃、敵云々更に軍拡...と、頻繁に目にするようになり、私の少女時代を思い出した。
1932年生まれの私は、誕生の翌年、満州事変が起り、物心ついた頃は、人の暮らしは戦争のあるのが平常と感じていた。そして日支事変・日中戦争~太平洋戦争へと続く中で育った。
戦争中のことで思い出すのは、第一に飢えである。戦争末期、地方の女学生だった私は、空襲にあうこともなく、悲惨な体験はないが寄宿舎から学校に通っており、戦争末期の食料不足、配給だけで賄っていた寄宿舎では、いつも腹ペコだった。朝食は野菜入りのおじやや味噌とタクワン、昼食は痩せてヒゲだらけのさつまいも2~3本がお皿にのっているだけ、
農家の友人から"アラ!可哀想"という目で見られるのもよい気持ちではなく、お弁当の時間気持ちまでひもじかった。夕食はいつもお粥、消化が良いので食べて少し経つともうお腹がすいてしまう、という日々だった。
学校は入学時150人3クラスだったが、1年間に疎開での転入生や海外から引き揚げてきた人達とで4クラスになり、それまで平凡な地方の学校に多種多様な生活環境や、体験を持った生徒が4分の一を占め、クラスの雰囲気はガラリと変わった。
担任は若くてすてきな英語の先生だったが、敵国語ということで授業がなくなり、先生は一学期が終わったところで失職、郷里の奈良へ帰ってしまわれ、二学期から疎開して来られた新聞記者だった国語の先生が担任になった。
教練(注)が週一時間授業に組み込まれたこと以外、勉強することはあまり記憶に残っていない。思い出すのは春夏秋冬、それぞれの季節に三週間ほど勤労動員で農家の手伝いをしたこと。働き盛りの男子は軒並み出征、戦死などで手が足りなかったためである。この期間は、朝登校して出欠を取るとすぐに作業衣に着替え、近隣の農家に行き、春は田植え、夏は田の草取り、秋は稲刈りに、冬は麦踏みと一日中働いて、夕方学校に戻る日々。実った稲を一株ずつ鎌で苅取る稲刈りは私の大得意で、友人とよく競い合った。
そして忘れられないのは、そこでの昼御飯、ゴマ塩のついた白米のおにぎりと沢庵を農家で出してくださり、それはそれは美味しかった。おにぎりが好きなのはこのせいかしら。
三才年上の姉は、学徒動員で県外の中島飛行機工場に行き、部品を作っていたが九カ月ほどで材料が底をつき、やることがなくなって、その後飛行場内の鉄屑拾いをやっていた、と言っていた。
それでも街には勇ましい軍歌が流れ、空襲が始まってからは "焼夷弾なら馴れっこの火の粉だよ。最初の一秒濡れむしろ" などという曲が歌われ戦争の批判など口が裂けても言えない時代だった。
このような時代を経てきた日本が平和を続けてゆくのか、又は戦争へ向かうのかの岐路に立っているのが現状と思われる。
今こそ日本国憲法の目指す方向へ、大きく楫を切って!! と切に切に願っています。
※注 軍の将校が朝礼台に立ち全生徒が整列してその前を分列行進する
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すごい時代を生き抜いていらっしゃった進藤さんの体験を綴ったお手紙、私達は戦争を知らない世代ですが、怖く悲しい戦争が身近に感じられました。ありがとうございました。
お手紙にあるように、日本が二度と戦争をしない、巻き込まれないように、今こそ平和憲法を守る政治を求めていきましょう。
原水爆禁止世界大会に参加させていただき、集会、分科会での多彩なゲストの方から、特に核軍縮、核廃絶の運動を引っ張っておられる海外の方の話が聞けてとても刺激を受けました。
多くの方が、被爆者の存在と活動に尊敬と感謝の念を表わされていました。また、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場での468回もの核実験とソ連からの独立後の実験場の廃止・ミサイルの廃棄、中央アジア非核条約、核兵器禁止条約への参加に至るバトルハン大使の話からも大変感銘を受けました。そしてスペインでは1966年にアメリカの爆撃機の給油中の落下により搭載していた水素爆弾によるプルトニウム汚染が起きたことも知り、核実験や偶発的な核兵器による事故への恐ろしさを実感しました。
唯一の戦争被爆国であり、平和憲法を持つ我が国の政府が核兵器禁止条約に参加しないことは世界から残念だと思われています。ベトナムの安保政策である4つのノー(軍事同盟ノー、ブロック政治ノー、外国の軍事基地ノー 武力による威嚇と武力の行使ノー)に対し、日本はもう4つのイエスになってしまっていることが残念でたまりません。
日本は本来ならば核兵器廃絶運動の先頭を切って走るべきだと思います。市民の運動が大きな力を持っていることをあらためて知って元気をいただき、世界情勢が危機的状況だからこそ核兵器禁止条約が希望の星であることを、大会を通して確信いたしました。
2024年原爆と平和展は7月26日から7月31日まで宮前市民館ギャラリーで開催されました。現在の市民館だけの展示の形になって5年目ですが、今年の展示の特徴は、まず今年は川崎市政100年にあたることもあり、川崎大空襲についての写真パネルや焼夷弾の模型を展示したこと。
二つ目に、平和のための原爆展で協力いただいていて昨年亡くなられた写真家の小池汪さんを偲ぶコーナーを設け、遺族の協力も得て写真作品のパネル展示と写真集を手にとって見られるようにしたこと。
三つ目は、今年はビキニ事件70年であり、今まで十分に扱えなかったこのテーマについての紹介を、新しい展示パネルで実施したことです。マーシャル諸島でのアメリカの67回もの水爆実験と3月1日のブラボー実験による第5福竜丸他約1000隻に及ぶ被爆、それから始まった原水爆禁止の署名運動や被爆者の裁判などが説明されていました。さらに、3年目になる広島基町高校の生徒と被爆者との共同制作の絵画も新しい35枚セットの全点を展示しました。
会場設営では、原爆関係のものは入って右半分にまとめて、左側にはそれ以外の展示や地元の有志による作品展示を行い、絵本と紙芝居のコーナーも左側に設けました。
以上、様々な検討を重ねましたが、見ていただいた方に少しでも核兵器廃絶と平和への思いが広がれば大変嬉しいです。
実行委員長の今川さんの報告では、来場者は500名、「アオギリにたくして」の映画上映は41名(スタッフ含)の参加で、昨年より人数が減ったようですが、異常ともいえる酷暑やパリ オリンピックの開催が影響したのでなないかとのことでした。
実行委員として参加して実感したのは、この原爆と平和展が多くの方の協力と連携で成り立っているということです。有難いことですが、展示品の貸借や展示パネルの作成など基本的なところで少数の方の頑張りで支えられているということも事実です。
来年は被爆80年の大きな節目であり、次回も無事に展示ができますように、また多くの人が来場してくださるように願っています。
協力してくださる方も今より増やさなければ、これからの展示を持続できない可能性もあります。新婦人の私達も会場受付や作品制作、展示作業等に大きな貢献をしていると思いますが、今後より多くの方々にご協力いただければと思います。また、今回ご協力いただいた方、展示をご覧になった方、感想やご意見をお寄せくだされば、実行委員として大変嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたしします。