『私の少女時代』 支部ニュース(9/7号)より

| トラックバック(0)

合唱団いちばん星では、コロナ等でのびのびになっていたSさんの米寿をお祝いする会が8月16日に行われたとのこと。新婦人の会の会員でもあるSさんが「私の少女時代」と題したお手紙を書いてくださったそうです。

今回はご本人のご了解のもと、その素敵なお手紙を掲載させていただきました。

************************************************************************************************************   

     私 の 少 女 時 代       

 たもりさんがテレビで「戦争前夜?」と言った頃だったろうか。日本の敗戦後。70余年、それまで殆ど目にすることの無かった「敵」という語をこのごろは敵基地攻撃、敵云々更に軍拡...と、頻繁に目にするようになり、私の少女時代を思い出した。

 1932年生まれの私は、誕生の翌年、満州事変が起り、物心ついた頃は、人の暮らしは戦争のあるのが平常と感じていた。そして日支事変・日中戦争~太平洋戦争へと続く中で育った。

 戦争中のことで思い出すのは、第一に飢えである。戦争末期、地方の女学生だった私は、空襲にあうこともなく、悲惨な体験はないが寄宿舎から学校に通っており、戦争末期の食料不足、配給だけで賄っていた寄宿舎では、いつも腹ペコだった。朝食は野菜入りのおじやや味噌とタクワン、昼食は痩せてヒゲだらけのさつまいも2~3本がお皿にのっているだけ、

農家の友人から"アラ!可哀想"という目で見られるのもよい気持ちではなく、お弁当の時間気持ちまでひもじかった。夕食はいつもお粥、消化が良いので食べて少し経つともうお腹がすいてしまう、という日々だった。

 学校は入学時150人3クラスだったが、1年間に疎開での転入生や海外から引き揚げてきた人達とで4クラスになり、それまで平凡な地方の学校に多種多様な生活環境や、体験を持った生徒が4分の一を占め、クラスの雰囲気はガラリと変わった。

担任は若くてすてきな英語の先生だったが、敵国語ということで授業がなくなり、先生は一学期が終わったところで失職、郷里の奈良へ帰ってしまわれ、二学期から疎開して来られた新聞記者だった国語の先生が担任になった。

教練(注)が週一時間授業に組み込まれたこと以外、勉強することはあまり記憶に残っていない。思い出すのは春夏秋冬、それぞれの季節に三週間ほど勤労動員で農家の手伝いをしたこと。働き盛りの男子は軒並み出征、戦死などで手が足りなかったためである。この期間は、朝登校して出欠を取るとすぐに作業衣に着替え、近隣の農家に行き、春は田植え、夏は田の草取り、秋は稲刈りに、冬は麦踏みと一日中働いて、夕方学校に戻る日々。実った稲を一株ずつ鎌で苅取る稲刈りは私の大得意で、友人とよく競い合った。

そして忘れられないのは、そこでの昼御飯、ゴマ塩のついた白米のおにぎりと沢庵を農家で出してくださり、それはそれは美味しかった。おにぎりが好きなのはこのせいかしら。

三才年上の姉は、学徒動員で県外の中島飛行機工場に行き、部品を作っていたが九カ月ほどで材料が底をつき、やることがなくなって、その後飛行場内の鉄屑拾いをやっていた、と言っていた。

それでも街には勇ましい軍歌が流れ、空襲が始まってからは "焼夷弾なら馴れっこの火の粉だよ。最初の一秒濡れむしろ" などという曲が歌われ戦争の批判など口が裂けても言えない時代だった。

このような時代を経てきた日本が平和を続けてゆくのか、又は戦争へ向かうのかの岐路に立っているのが現状と思われる。

今こそ日本国憲法の目指す方向へ、大きく楫を切って!! と切に切に願っています。

※注 軍の将校が朝礼台に立ち全生徒が整列してその前を分列行進する

************************************************************************************************************

 すごい時代を生き抜いていらっしゃった進藤さんの体験を綴ったお手紙、私達は戦争を知らない世代ですが、怖く悲しい戦争が身近に感じられました。ありがとうございました。

お手紙にあるように、日本が二度と戦争をしない、巻き込まれないように、今こそ平和憲法を守る政治を求めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0)

トラックバックURL: https://www.shinfujin.miyamae-kawasaki.jp/mt/mt-tb.cgi/151